先日、忘却想念執着症状について、ご説明しました。その説明文を再掲します。

1.ある想念A1が心に浮かぶ。
2.その想念A1をきっかけとして、似たような想念A2、A3、・・・が続いて浮かぶ。
3.想念の系列A1、A2、A3・・・への関心が消滅しないうちに、別の新しい想念Bが浮かぶ。
4.想念Bへの関心が高まり、Bを思考したくなる。
5.Bへの関心が高まり、想念A1の内容を忘却する。
6.Bがこころを支配する。
7.Aを想起したくなり、思いだそうとするが思い出せない。
8.Bの次の想念Cが浮かぶ。
9.Bの内容を忘却する。
10.AとBを思い出したいが、思い出せない。
11.Cが心を支配する。


このように次々と想念が連鎖していき、過去の想念を思い出したくても、思い出せないという地獄のような苦しみを味わう。

さて、ほかの強迫行為も含めて、このような強迫症状はどのような心理でなされるのでしょうか?

忘却想念執着症状では、過去の想念にとらわれて「思い出したい」ので繰り返し思い出そうとする。
では、思い出してどうするのか? それはこうです。
想念を思い出して、その想念を気持ちよく感じたいのです。つまり、想念を気持ちよく感じようということを意思で制御しようとする。森田正馬は、これを神経質者の「気分本位」と言っています。
いい気分を追究しようとする。それが神経質者の特徴です。いい気分を創ろうとすればするほど、いい気分はなくなります。

不潔恐怖の手洗い行為はなぜ、繰り返すのか?
洗ってもきれいになっていないと思うのはなぜか?
それも、洗ったあとのすっきりした感覚を求めているのです。しかし、すっきりした感じがしないので手洗い行為を繰り返し、意思で「すっきり感」を創ろうとするのです。
必ずしも「汚いという恐怖そのもの」から手洗いを繰り返すわけではないと思うのですがどうでしょうか?>不潔恐怖のみなさん?

正常なひとなら、一度手を洗うと「すっきり感」を直感的に味わえて、何回もあらうことはしませんが、不潔恐怖のひとは、その直感的な感覚を疑ってしまいます。そこに思考が介入し、直感的なすっきり感がボケてきます。ボケると、ますます気に入らず、何回も洗うことになるのでしょう。
ガスや火の元、戸締りの確認の強迫行為もそうです。戸締りをしたときの、「気持ちいい鍵のかかった感覚」を追い求めてしまうのが、確認恐怖です。何回やっても、しっかりとした感覚が感じられないのが不満で行為を繰り返します。

意思や思考で「感情・感覚は作れない」のです。感情は意思でコントロールできない、と森田は言っています。
 
強迫行為の心理には、常に、この「いい気分を追究する心理」があると思いますが、いかがでしょうか?

森田正馬は、この気分本位を戒めています。気分本位ではなく、事実本位でなくてはいけないと。

それで、強迫行為をやめるために、直感的感覚から出発して行動しなさいという人(治療者)がいます。

そういっても、直感的感覚で、「すっきり感で満足できない」のが強迫行為の人なんですから、このような説得はなにも意味がありません。

前にも言いましたように、森田理論を説得しても何も治療効果がありません。
(今書いているこの記事は、説得しているのではありません。心理の説明です。) 

強迫行為の治療をするなら、本を音読させるとか、なにか具体的に行動をさせるとか、行動を指示するほうが効果があると思います。

外来森田療法はありえないと思いますが、外来で、このように行動を指示するなら、「森田的治療」と言えるかもしれません。

浜松医大の星野良一医師は、外来患者に目前で本を朗読させたと言っていました。

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